The Division Bell - Pink Floyd

ピンク・フロイドの新作「対」を聴いた。期待通りの出来であった。待ちに待ったアルバムにここのところ裏切られ続けているだけにピンク・フロイドのこのアルバムには安心した。
モトリー・クルーの新作は酷い。ヴィンス・ニールを追い出してつくったのがこんなに酷いとは、全くファンを馬鹿にしている。今、酷いと書いたが、実はそんなに酷くはないのだ。かなり迫力のある音で現在の音楽シーンの最先端をいくサウンドであることは確かである。エアロスミスののりをノイジーで重苦しいギターで表現したという感じである。ところがこのノイジーで重いギターのおかげでモトリー・クルーの持つ繊細さが隠されてしまっている。新しいボーカルの声も同様の影響をバンドに与えている。ある意味でヴィンス・ニールの声はモトリー・クルーにとって弱点でもあった。線が細いというか弱いというか、ヴィンスの声はいつも不安定であったといってもよいだろう。しかし、今となってはヴィンスの細い声がモトリー・クルーの魅力を際立たせていたのかもしれない。ニッキー・シックスの作り出す、胸をえぐるようなメロディと何気ないコード・チェンジの微妙な揺れが今回のアルバムではもったいないことに感じられないのだ。この曲ならばヴィンスが歌えばもっとよかったのに、という曲が何曲もあった。とにかくモトリー・クルーには失望した。
ピンク・フロイドの新作はよい。前作「鬱」よりもいい。ロジャー・ウォーターズ脱退後、初のアルバムであった前作「鬱」は司令塔を失ったフロイドが新しい司令塔、デイヴ・ギルモアの元でどれだけできるのかということが絶えず注目されていた中で制作されたアルバムである。そのプレッシャーの中でデイヴ・ギルモアはピンク・フロイドの名に恥ずかしくないアルバムを作り上げた。しかし、傑作であったかというと疑問である。曲調にかなりブルーズの要素が多く表れていた。これは当然、デイヴ・ギルモアのセンスや要求によるものである。そのデイヴ・ギルモアの趣味が作品の骨格となっていたが、同時にアルバムの弱さ、特に冗長な部分が出てしまったのもこのデイヴ・ギルモアのセンスに起因する部分が多いと思われた。確かにライヴ・パフォーマンスではとんでもない強さを見せつけた。アルバムの内容以上のものをステージで再現してみせた。それはピンク・フロイドだからできることであった。つまりコストをかけられる強みである。大きな会場と大がかりなセット、そしてそのコストを回収できるだけの格の大きさ。この格の大きさを作ったのは実はデイヴ・ギルモアではない。ロジャー・ウォーターズなのだ。ピンク・フロイドの代表作は何かと訊かれてデイヴ・ギルモアの「鬱」だと答えるピンク・フロイドのファンはいない。
しかし、今度のアルバム「対」はいい。これほど空間(スペース)を感じさせるアルバムは久しぶりだ。いや、初めてかもしれない。方法論は6年前の「鬱」と全く同じである。デイヴ・ギルモアのブルーズ志向が薄まった分だけ、音の広がりで聴かせる部分が増えたといえる。前作で冗長だった部分がこの「対」ではほとんどない。
ヘヴィ・メタルでは考えられないほどスロー・テンポの曲が多い。デイヴ・ギルモアのギターも音の一つ一つに魂を込めるかのようなフレーズを奏でる。聴く者に音一つたりとも聞き逃させまいとする執念のようなものを感じる。
ただ、心配なのは次の作品である。ロジャー・ウォーターズが抜け、デイヴ・ギルモアが主導権を握った「鬱」からみると、「対」はいわばセカンド・アルバムである。伊藤政則も指摘していたが、新人バンドにとって最初の関門がセカンド・アルバムである。新人バンド、ピンク・フロイドはこの関門を突破したと言えよう。しかし、また6年後にこのアルバムと同じ方法論で次のアルバムをつくることはできないだろう。「鬱」と「対」のサウンドはよく似ている。ギター、ピアノ、キーボードの音色。エコーのかけ方。コード進行。ピンク・フロイドだからこそ許される部分も、次のアルバムでは許されないだろう。このアルバム「対」の出来には喜んでいるが同時にデイヴ・ギルモアのアイディアの行き詰まりといったものも感じられるのである。

※1994年に書かれた記事です。

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