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がんばれマリーンズ-過去を振り返る
さて、次に示すのは1シーズン制になってから、つまり1983年以降のマリーンズの成績表である。
これほど、弱いチームは他にはない。
史上最弱と言っていい。
1973年から1982年のちょうど10年間、パシフィック・リーグは2シーズン制を取っていた。
前期優勝と後期優勝がプレーオフを行い、その年の総合優勝を決めるという方法である。
セントラル・リーグに較べ、人気の点で劣っていたパシフィック・リーグが考えた苦肉の策で、プレーオフは盛り上がった。
年 | 監督 | 順位 | 試合 | 勝 | 負 | 分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1983 | 山本一義 | 6 | 130 | 43 | 76 | 11 | .361 |
1984 | 稲尾和久 | 2 | 130 | 64 | 51 | 15 | .557 |
1985 | 稲尾和久 | 2 | 130 | 64 | 60 | 6 | .516 |
1986 | 稲尾和久 | 4 | 130 | 57 | 64 | 9 | .471 |
1987 | 有藤道世 | 5 | 130 | 51 | 65 | 14 | .440 |
1988 | 有藤道世 | 6 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 |
1989 | 有藤道世 | 6 | 130 | 48 | 74 | 8 | .393 |
1990 | 金田正一 | 5 | 130 | 57 | 71 | 2 | .445 |
1991 | 金田正一 | 6 | 130 | 48 | 77 | 5 | .384 |
1992 | 八木沢荘六 | 6 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 |
1993 | 八木沢荘六 | 5 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 |
1994 | 八木沢荘六 | 5 | 130 | 55 | 73 | 2 | .430 |
1995 | ボビー・バレンタイン | 2 | 130 | 69 | 58 | 3 | .543 |
1996 | 江尻亮 | 5 | 130 | 60 | 67 | 3 | .472 |
1997 | 近藤昭仁 | 6 | 135 | 57 | 76 | 2 | .429 |
1998 | 近藤昭仁 | 6 | 135 | 61 | 71 | 3 | .462 |
この16年間の順位の平均を取ると、4.8。稲尾が監督をした1984年から1986年と、バレンタインが監督をした1995年を除くと、すべて5位以下ということになる。
あらためて見ると、驚異的なチームである。
好成績を残した1984年から1986年は落合が大活躍をした時期である。
1981年、初めて首位打者となった落合は、次の1982年には、首位打者、本塁打王、打点王、つまり三冠王となる。
落合は、1985年、1986年にも三冠王となる。
落合の全盛期である。
1983年から1998年のマリーンズの年間得点の平均は536点。
ところが、落合が活躍した1981年から1986年の年間得点は平均600点。
2位となった1984年と1985年に限れば676点である(1984年は632点、1985年は720点)。
これに対し、年間失点については、1983年から1998年の平均は595点。
1984年と1985年の平均は657点。
つまり、この2年間は、落合を中心として、打線が打ち勝ってきたということになる。
監督が投手出身だからといって、守り中心のチームになるわけではない、という典型的な例である。
では、バレンタイン監督の1995年を見てみると、得点は481点、失点は461点。
少ない得点を守り抜いて勝ってきたということが分かる。
いかにバレンタイン監督の力量が高かったかということが分かるのではないだろうか。
この年は、ヒルマン、伊良部、小宮山という3本柱が活躍した。
また、初芝が初めて打点王になっている。
区分 | 得点 | 失点 |
---|---|---|
1983年から1998年(1シーズン制以降) | 536 | 595 |
1984年および1985年(稲尾監督) | 676 | 657 |
1995年(バレンタイン監督) | 481 | 461 |
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[2005-05-15]
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