草原の豹 – バイバルスの一生

奴隷市場からの旅立ち

「バイバルス」――「高貴な豹」あるいは「豹の主」を意味するこの名を負い、一人の男児が黒海北方に果てしなく広がる草原に生を受けました。ダシュティ・キプチャクと呼ばれる、この大地に暮らす遊牧民族キプチャク。その中のバルリ族の血を引く彼が産声を上げたのは、1228年頃のことです。だが、名に込められた豹の誇りとは裏腹に、彼の幼少期は、モンゴル帝国の拡大という巨大な歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていくことになります。

長じて彼は、その名にふさわしい威容を備えた男となりました。背が高く、肩幅は広く、胸は逞しく張り、それでいて足は引き締まって細い。肌はオリーブ色あるいは褐色を帯び、その中に碧い双眸が湛えられていました。そして、その碧眼の片方には、白内障による白い斑点が浮かんでいました。これは後年、彼の運命を思わぬ形で左右することになる特徴でした。声もまた尋常ではなく、ひとたび発すれば周囲を圧する力強さを備えていたといいます。

1242年頃、モンゴル軍の侵攻を逃れるため、彼は一族と共にブルガリア方面へと落ち延びました。だが、その逃避行の先にもモンゴルの追撃の手は伸びていました。両親が虐殺される惨劇を目の当たりにしながら、彼自身もまた捕虜の身に落ちます。14歳という若さで奴隷として売りに出された彼は、アナトリアのスィヴァスの奴隷市場へと送られました。しかし当時、モンゴルの侵略によって捕虜となった奴隷が市場には溢れかえっており、買い手はなかなか現れませんでした。

それからの彼が味わったのは、屈辱の連続でした。ハマーのアイユーブ家の王族に一度は買われたものの、肌が褐色であることを理由に返却されます。次いでダマスカスで購入された際にも、かの片目に宿る白内障の斑点が「欠陥」と見なされ、再び突き返されてしまいました。後に一国の頂点に立つ男が、この時期には市場で値踏みされ、瑕疵を理由に返品される一個の商品として扱われていたのです。

最終的に彼を救い出したのは、ハマーで仕えるアミールとなっていたアイダキーン・アル=ブンドゥクダーリーでした。彼もまた、かつては奴隷の身から身を起こしたマムルークの一人でした。この主人に購入されたことで、彼はようやく過酷な奴隷市場から抜け出すことができました。後に彼の名の一部となる「アル=ブンドゥクダーリー」という呼称は、この主人に由来するものです。1246年、18歳の頃、彼は主人の移送に伴ってカイロへと移りました。

ところが、運命は再び彼を揺さぶります。主人アイダキーンが当時のスルターン・サーリフの不興を買い、その財産を没収される事態となったのです。バイバルスもまた没収対象の奴隷の一人としてサーリフの手元へ移され、彼の直属軍団である精鋭バフリー・マムルークに編入されることとなりました。皮肉にも、この主人の失脚こそが、彼を宮廷の中枢へと押し上げる転機となったのです。

サーリフの下で、当初の彼に与えられたのは衣装係という地味な役職にすぎませんでした。だが、彼はそこにとどまる器ではありませんでした。軍人としての卓越した資質を遺憾なく発揮し、20歳頃には連隊長の地位へと駆け上がっていきます。かつて市場で見向きもされなかった奴隷の少年は、こうして後の英雄としての片鱗を、はっきりと見せ始めたのです。

十字軍撃退と王朝の誕生

1249年、フランス王ルイ9世が率いる第7回十字軍がエジプトへと侵攻し、ナイル河口の要衝ダミエッタを占領しました。この国家存亡の危機に際し、すでに病床にあったスルターン・サーリフは、なお気力を振り絞ってマンスーラに陣を構え、迎撃を試みます。しかしその努力もむなしく、同年11月、サーリフは陣中にて没します。指導者を失った軍にとって、これ以上ない苦境でした。

この危急の折、バフリー・マムルーク(奴隷軍)の長であるアクターイが不在であったため、その精鋭軍団の指揮は一時的にバイバルスの手に委ねられることとなりました。彼にとって、自らの真価を世に問う最初の大舞台でした。1250年2月、十字軍の騎兵隊がマンスーラ市内へ突入してくると、バイバルスはあえて城門を開け放ち、敵を市街の奥深くへと誘い込むという大胆な計略を用います。意気揚々と市内に乗り込んだ十字軍は、気づいた時にはすでに退路を断たれていました。バフリー・マムルークと市民とによる包囲攻撃を四方から受けて壊滅し、王弟ロベールをはじめ、多くの騎士がこの罠の中で戦死を遂げたのです。

勢いに乗るバイバルスは、続くファルスクールの戦いにおいても、帰国したサーリフの息子トゥーラーン・シャーと共に十字軍を追い詰め、ついにルイ9世その人を捕虜とするという歴史的な勝利を収めました。一国の王を虜囚とするこの大戦果により、若き指揮官の名は一躍轟くこととなりました。

ところが、勝利の余韻は長く続きませんでした。戦勝の直後にスルターンとなったトゥーラーン・シャーは、勝利の立役者であるバフリー・マムルークをかえって遠ざけ、自らの側近ばかりを重用したのです。功を立てながら冷遇された不満は、やがて謀反へと姿を変えます。バイバルスは仲間と共にスルターンの暗殺を計画します。1250年5月2日、まずバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけ、続いてアクターイが致命傷を与えるという形で暗殺は決行されました。これによりアイユーブ朝は事実上の終焉を迎え、奴隷軍人たちの王朝、すなわちマムルーク朝が産声を上げたのです。

新政権において実力者となったイッズッディーン・アイバクは、やがて強大化するバフリー・マムルークを危険視するようになりました。1254年、アイバクはその指導者アクターイを殺害します。身の危険を悟ったバイバルスは、カラーウーンらと共にエジプトを脱出し、シリアへの亡命を余儀なくされました。

シリアでの放浪時代、彼はダマスカスのナースィル・ユースフや、カラクのムギースといったアイユーブ朝の王族の下を転々としながら、エジプトへの帰還の機会をひたすら窺い続けました。寄る辺なきこの放浪生活は、彼にとって極めて困難な時期でした。しかし彼は、どれほど苦境に陥っても決して仲間を見捨てることなく、これに耐え抜きました。

アイン・ジャールートの英雄

1258年、モンゴル帝国の皇族フレグによって、アッバース朝の首都バグダードが壊滅させられました。500年にわたってイスラム世界の象徴であり続けた都が一夜にして灰燼に帰したという報せは、アラブ世界全体を未曾有の恐怖で包み込みました。次に蹂躙されるのは自分たちの番ではないか。その予感は、瞬く間に各地へと広がっていきました。

シリアのアイユーブ朝の政権が、恐怖のあまりモンゴルへの降伏を検討する中、当時シリアに亡命していたバイバルスは、その弱腰の指導層に激しく憤慨しました。彼はイスラム世界の滅亡を阻止すべく、新たな君主を擁立しようと画策します。だがこの試みは失敗に終わり、彼は仲間を引き連れてガザへと移らざるを得ませんでした。

一方、エジプトでは将軍ムザッファル・クトゥズがスルターンとして即位していました。クトゥズから差し伸べられた和解の手に、バイバルスは応じる決断を下します。彼はカイロへと帰還し、対モンゴル戦の司令官という重責に任命されました。

幸いにも、モンゴル軍の主力はフレグの帰還に伴ってペルシャへと退却しており、シリアにはケドブカが代理の司令官として残されているにすぎませんでした。それでもモンゴルの威圧は健在であり、彼らは降伏勧告の使節を送りつけてきます。クトゥズとバイバルスはこれを断固として拒絶し、あろうことか使節を処刑することで、最後まで戦い抜くという不退転の意思を全世界に示したのです。

1260年9月3日、パレスチナのアイン・ジャールートにおいて、両軍はついに激突しました。バイバルス率いる前衛部隊は、巧みに敵を引きつけたうえで、クトゥズの本隊と呼応してモンゴル軍を挟撃します。無敵を誇ったモンゴルの軍勢はこの挟撃の前に崩れ、司令官ケドブカもまた敗死しました。世界を席巻したモンゴル軍が、初めて決定的な敗北を喫した瞬間でした。この「アイン・ジャールートの戦い」は、モンゴルの西進を食い止めた歴史的勝利として、永く記憶されることになります。

しかし、勝利は新たな火種を生みました。戦勝の報償としてバイバルスに約束されていたアレッポ総督の地位を、クトゥズが拒んだのです。これによって両者の対立は決定的なものとなりました。同年10月、戦勝の熱狂もいまだ冷めやらぬまま、一行がカイロへの帰還途上にあったときのことです。バイバルスは不満を抱く仲間と共に、狩りの最中を狙ってクトゥズを刺殺しました。そして、止めを刺した当事者がその地位を継ぐというテュルクの慣習に基づき、彼自身が新たなスルターンとして推戴されたのです。ここに彼は、アル=マリク・アッ=ザーヒル・ルクヌッディーン・バイバルス・アル=ブンドゥクダーリーという威厳ある王名を戴く身となりました。両親を奪われ、市場で値踏みされた草原の少年は、ここについに一国の頂点へと上り詰めたのです。

カリフの擁立と信仰の守護者

1258年のバグダード陥落は、イスラム世界に深刻な空白をもたらしていました。象徴的な指導者であるカリフ(予言者の代理人)を欠いてしまったのです。武力のみによって王朝を興したマムルーク政権にとって、自らの統治に宗教的な正統性をいかに付与するかは、避けて通れない喫緊の課題でした。スルターンに即位したバイバルスは、この難題の解決にただちに着手します。

1261年、最後のアッバース朝カリフの叔父を自称するアフマドなる人物がダマスカスに到着しました。バイバルスは好機と見て彼をカイロに招き、学者や裁判官による身元の精査という慎重な手続きを経たうえで、新たなカリフ・ムスタンスィル2世として擁立します。バイバルスはこのカリフから、エジプト、シリア、アナトリアの統治を認める叙任状を受け取ります。こうして「カリフの代理たるスルターン」という地位を確立し、自らの正統性を内外に高らかに誇示したのです。カイロで催された祝賀の行進では、バイバルスはアッバース家の象徴である黒色のターバンと紫色のガウンを身に纏い、ユダヤ教徒やキリスト教徒も見守る中を、カリフと轡を並べて練り歩きました。

もっとも、バイバルスはカリフが実権を握ることまでは望んでいませんでした。彼にとってカリフとは、あくまで権威の源泉であって、政治の主導者ではなかったのです。やがて彼は、バグダード奪還を名目として、わずか300騎の護衛のみを付けてカリフを送り出します。あまりに手薄なこの一行は、案の定、ユーフラテス川付近でモンゴル軍の襲撃を受けて殺害されてしまいます。その後、別の生存者であるハーキムが新たなカリフとして擁立されますが、バイバルスは彼をカイロ市中から隔離し、市民との接触をすら禁じました。カリフはあくまで政権の権威を飾るための「道具」として、慎重に管理されたのです。

宗教政策においても、バイバルスは熱心なスンナ派の信奉者としての顔を前面に押し出し、国家の法秩序と社会規律の整備を断行しました。中でも画期的だったのは、司法制度の改革です。彼はスンナ派の四大法学派(シャーフィイー派、ハナフィー派、マーリク派、ハンバル派)のそれぞれを代表する4人の裁判官(大カーディー)を並立して任命しました。これにより、それまで主流であったシャーフィイー派の独占が排され、各学派は名目上対等の立場に置かれることとなりました。スンナ派全体の権威が高まると同時に、この措置には、法学者(ウラマー)に対する国家の統制力を強化するという周到な狙いも込められていたとされています。

公共の道徳に対する彼の姿勢もまた厳格でした。当時、国家の主要な収入源の一つでもあった売春を厳しく取り締まり、社会の浄化を図ったのです。聖地に対しては並々ならぬ情熱を注ぎ、1269年には自ら巡礼の途につき、メッカ巡礼を果たして「両聖地の保護者」を自称しました。メッカとメディナの守護者という地位を、彼はこうして確固たるものとしたのです。さらに、カアバ神殿に被せる絹の覆い(キスワ)を毎年贈呈する儀礼を始め、巡礼団の先頭を行く輿(マフミル)の制度を確立するなど、聖地の保護を巧みにスルターンの権力正当化へと結びつけていきました。加えて、カイロのアズハル・モスクやエルサレムの岩のドームの修復、ザーヒリーヤ学院の建設といった大規模な建築事業を通じて、イスラムの守護者としての名声を、目に見える形でも強調したのです。

征服の父

スルターンとなったバイバルスは、イスラム世界を脅かす外部勢力に対して、休むことを知らぬ攻勢を続けました。その輝かしい軍功ゆえに、彼はやがて「征服の父(アブー・アル=フトゥーフ)」と称えられるようになります。

彼はまず、宿敵イルハン国のアバカが内部事情によって積極的な攻勢に出られない状況を冷静に見定めます。その隙を突き、かつてキリスト教徒がモンゴル軍を支援したことへの報復として、シリアに残存する十字軍国家への本格的な攻撃を開始したのです。1265年にはカイサリアやアルスーフを陥落させ、翌1266年にはテンプル騎士団が守る戦略的要衝サファドを攻略して、これを自軍の強固な拠点へと作り替えました。1268年には、十字軍国家の最重要拠点の一つであったアンティオキアを陥落させます。このとき行われた凄惨な略奪と大規模な虐殺によって、アンティオキア公国は事実上消滅しました。さらに1271年には、聖ヨハネ騎士団総長の名を騙った偽の降伏命令書を用いるという巧妙な計略によって、難攻不落と謳われた城塞クラック・デ・シュヴァリエをも攻略し、十字軍を海岸線のわずかな地域へと追い詰めていきました。

こうした対十字軍戦争と並行して、バイバルスは宿敵イルハン国を封じ込めるための、高度な外交・軍事戦略を展開しました。彼は同じイスラム教徒であるジョチ・ウルスのベルケと軍事同盟を結び、イルハン国を北と南から牽制する体制を築き上げます。この巧みな包囲網によって、大規模なモンゴル軍の侵入を未然に防いだのです。また、モンゴルと協力関係にあったキリキア・アルメニア王国に対しても親征を行い、1266年のマリの戦いで勝利を収めて王子レオンを捕虜とするなど、多大な打撃を与えて従属を強いました。さらに、シリア北部に拠点を置き、十字軍への支援も行っていた暗殺教団に対しても断固たる軍事行動を講じ、1273年までにその全ての要塞を掌握します。これによって暗殺教団の勢力を事実上解体し、彼らを自らの統制下に置くことに成功しました。

バイバルスの征服の矛先は、南方のヌビアにも向けられました。1272年、ヌビアのキリスト教国家マクリア王国がエジプト南部の港アイザーブなどを襲撃すると、バイバルスは1275年から翌年にかけて大規模な討伐隊を派遣します。マムルーク軍はドンゴラの戦いでヌビア軍を破り、国王ダーウドを追放したうえで、バイバルス自らが選んだ新たな王シャクンダを即位させました。マクリアを朝貢国とすることで、彼はヌビア全土を初めてイスラムの影響下に置いたのです。

17年間の在位中に、バイバルスが指揮した遠征は実に38回にも及びました。圧倒的な武力と巧みな外交とを縦横に駆使することで、彼は東地中海におけるマムルーク朝の覇権を揺るぎないものとし、王朝の黄金時代の礎を築き上げたのです。

帝国の礎を築く

バイバルスの非凡さは、戦場における武勇だけにとどまりませんでした。広大な領土を実際に統治するための帝国の基盤整備と内政においても、彼は卓越した手腕を発揮したのです。

彼がとりわけ力を注いだのが、エジプトとシリアという二つの主要領域を強固に結びつける通信網の整備でした。彼は駅伝制(バリード)と呼ばれる高度な仕組みを再編・整備します。この制度では、街道沿いに数十キロメートルごとに駅舎が設置され、そこに常駐する駅馬や人夫によって、情報が次々とリレーされていきました。このバリードの活用によって、700キロメートル以上も離れたカイロとダマスカスの間を、わずか4日で伝令が往復することが可能となりました。緊急時には、伝書鳩による警告までもが併用されたといいます。この迅速な情報伝達網のおかげで、バイバルスはカイロの宮廷にいながらにして、モンゴルの動向や各地の総督の動きを即座に察知することができました。これは、強力な中央集権体制を確立するうえで、計り知れない威力を発揮したのです。

帝国のインフラ整備に対する彼の情熱もまた、並々ならぬものでした。運河の開削、溝渠の整備、灌漑システムの構築、さらには港湾の修築や城塞の建設に至るまで、彼は大規模な事業を次々と推進しました。とりわけ公共事業として架けられた多くの橋には、彼の名の語源である「豹」にちなんだライオンの紋章(ブラゾン)が刻印されました。1273年に現在のロード近郊に架けられたジンダス橋には、豹が宿敵を象徴するネズミを弄ぶレリーフが今も残されており、エルサレムの聖ステファノス門(ライオン門)にも、対になった豹の紋章という同系統の意匠が施されています。この豹に由来する意匠は、橋や城門のみならず、彼が自ら発行した貨幣の上にも刻まれました。こうして彼は、自らの権威を視覚的にも各地に刻み込んでいったのです。

こうした統治者としての顔の裏には、一個の人間としてのバイバルスの姿がありました。彼の体力は人並み外れており、重い鎧を身に纏ったままナイル川を泳ぎ切り、カイロからダマスカスまでの長距離を馬で駆け抜けた直後であっても、疲れの色一つ見せずに競技場でポロに興じたと伝えられています。気性は勇敢であると同時に暴力的でもあり、配下のアミールたちはその苛烈さを畏れました。だがその一方で、彼は過去の歴史に深い関心を寄せ、古の出来事を聴くことを最大の研鑽と見なす知的な好奇心の持ち主でもありました。金銭への執着を持たない禁欲的な気質もまた、この豹の意外な横顔でした。さらに、医学研究を保護してアラブ人医師イブン・アル=ナフィースを支援し、カイロに猫のための庭園をワクフ(宗教財産)として残すなど、科学への理解と弱きものへの慈悲もまた、苛烈な征服者の横顔の裏に確かに存在した一面です。武勇と知性、苛烈さと禁欲、そして慈悲とが同居する、まことに一筋縄ではいかぬ統治者だったのです。これら多岐にわたる内政改革と人物の総体を通じて、バイバルスは武力に頼るだけではない、マムルーク朝の永続的な国家基盤を築き上げたのでした。

英雄の最期と遺産

1277年、バイバルスはアナトリアのエルビスターンの戦いでモンゴル軍を打ち破り、勝利を携えてダマスカスへと帰還しました。彼は祝杯の席で、造反の疑いをかけた部下を葬ろうと毒入りの馬乳酒を用意していたといいます。しかし何の手違いがあったのか、それを誤って口にしてしまったのは、他ならぬ彼自身でした。急な腹痛に見舞われた彼は、二週間ほどの苦しみの末、49歳でその生涯を閉じました。

バイバルスは生前から、自らの息子であるバラカへの世襲を確実なものとするため、配下の将軍たちに忠誠を誓わせるなど、周到な準備を進めていました。それでもなお、自身の死が軍の動揺や反乱を招くことを彼は懸念していました。それゆえ彼の死は、葬列がカイロに届くまでの間、固く秘匿されました。

彼の遺体はダマスカスのサラディン廟の近くに安置され、後に自身が建立したザーヒリーヤ図書館の敷地内に埋葬されました。彼の死後、一度は息子バラカがスルターン位を継承したものの、その治世は短く、最終的には有力将軍であったカラーウーンが実権を握ることとなります。亡命の苦楽を共にした盟友が、やがて王朝を継ぐことになったのは、歴史の皮肉であり、また必然でもありました。

父母を失い、奴隷市場で幾度となく売り買いされた草原の孤児は、ついに一個の帝国を打ち立てる英雄となりました。その勇猛果敢な姿勢と卓越した統治能力ゆえに、バイバルスは中世イスラム史上、最も偉大なスルターンの一人として、今なお人々の記憶の中に生き続けているのです。

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