極貧の志と「鶏」の別れ
紀元前725年頃、百里奚(ひゃくりけい)は楚の国で生まれました。氏は百里、名は奚。家はこれ以上ないほど貧しく、日々の食事にも事欠くほどでしたが、彼は幼い頃から詩書を熱心に読み込み、その才能と学力は周囲の人間を驚かせるほど抜きん出ていました。
三十歳になった百里奚は、杜氏(とし)という賢明な女性を妻に迎えました。妻は、夫が世に稀なる才能を秘めていることを見抜き、「この小さな村に埋もれていてはいけません。諸国を巡り、あなたの力を活かせる場所を探してください」と、仕官の旅に出るよう強く勧めました。
旅立ちの朝、家には米一粒、薪一本すら残っていませんでした。杜氏は、家で唯一の財産であった、卵を産むための雌鶏を屠り、家の戸の閂を薪にして火を焚き、夫のために最後の手料理を振る舞いました。百里奚は、妻の深い愛と覚悟を胸に、故郷を後にしました。
漂泊の果ての出会い
百里奚の旅は、苦難の連続でした。宋や斉といった諸国を渡り歩きましたが、後ろ盾のない彼を雇い入れる国はありません。斉の国ではついに路頭に迷い、物乞いをして飢えをしのぐという屈辱も味わいました。
そんな彼を救ったのが、生涯の友となる蹇叔(けんしゅく)です。二人は出会ってすぐに意気投合し、天下の情勢を論じ合いました。百里奚は、蹇叔という類まれな智者の助言を受けながら、仕官の機会をうかがいました。
蹇叔は鋭い洞察力で、百里奚が関わろうとする主君たちの危うさを見抜きました。斉の無知や周の王子・頽(たい)への仕官を検討した際も、蹇叔はその都度「あの主君は危うい」と彼を引き止めました。事実、それらの主君は後に殺害されており、百里奚は蹇叔の慧眼によって死を免れたのです。
しかし、いつまでも友に甘えるわけにはいかないと考えた百里奚は、ついに蹇叔の反対を押し切って、小国・虞(ぐ)で大夫の地位に就きました。これが、彼のさらなる転落の始まりでした。
滅亡と奴隷への転落
紀元前655年、強国・晋の献公が、虞の隣国である虢(かく)を討つために「虞の領内を通らせてほしい」と要求してきました。献公は、虞の君主(虞公)の物欲を刺激するため、名玉と名馬を贈り物として届けました。
百里奚は、賢臣・宮之奇(きゅうしき)と共に「虢が滅べば、次は我が国が狙われます。これは『唇亡びて歯寒し(唇亡歯寒)』の策です」と必死に諫めましたが、財宝に目がくらんだ虞公は耳を貸しませんでした。結果、晋は虢を滅ぼした帰路、そのまま虞を奇襲して滅亡させました。
七十歳という高齢で捕虜となった百里奚は、晋の公女が秦の穆公(ぼくこう)に嫁ぐ際の「添え物の奴隷」として、遠く西方の秦へ送られることになりました。
「かつては一国の宰相を夢見た私が、今や嫁入り道具の召使いか」
自尊心を深く傷つけられた百里奚は、秦へ向かう途中で脱走し、南方の楚へと逃げ込みました。しかし、そこで再び楚の役人に捕らえられ、身分を隠して牛を飼う奴隷として働くことになりました。
五枚の羊の皮
一方、秦の穆公は、人材確保に並々ならぬ情熱を燃やす野心家でした。彼は、嫁入り道具の中にいたはずの老人が逃亡したこと、そしてその老人が実は虞で優れた見識を示していた百里奚であることを知ります。
「その男こそ、私が求めていた人材だ」
穆公はすぐに百里奚を買い戻そうと考えましたが、まともに大金を積んでは、楚の君主が彼の価値に気づき、手放さなくなることを恐れました。そこで穆公は、一計を案じました。
「我が家の逃亡奴隷が、そちらで牛を飼っていると聞いた。黒い雄羊の皮五枚で引き取りたい」
あまりに安価な申し出に、楚の王は「ただの老いぼれ奴隷か」と笑って承諾しました。こうして、百里奚は粗末な車に乗せられ、秦へと連行されました。この逸話から、彼は後に「五羖大夫(ごこたいふ)」と呼ばれるようになります。
三日三晩の対話
秦に到着した百里奚に、穆公自らが面会しました。当初、百里奚は「私は亡国の臣です。語るべきことなどありません」と固辞しましたが、穆公は「虞が滅んだのは君のせいではない。君の言葉を用いなかった君主の罪だ」と熱心に説得しました。
二人はそれから三日三晩、国政について語り明かしました。百里奚の語る壮大な戦略と仁政の理想に、穆公は震えるほど感動し、その場ですべての職権を彼に委ね、宰相に任命したのです。この時、百里奚はすでに七十歳を過ぎていました。
百里奚はまず、自らよりも優れた才能を持つ親友・蹇叔を秦に招き入れるよう進言しました。穆公はこれを受け入れ、蹇叔もまた秦の上大夫として迎えられ、二人の賢者が秦の屋台骨を支えることとなりました。
徳をもって国を治む
宰相となった百里奚が行ったのは、単なる武力による拡張ではありませんでした。彼は徹底した徳政を敷きました。
略奪を繰り返していた周辺の異民族に対し、農業などの産業を教え、略奪に頼らずとも豊かに暮らせる道を示しました。百里奚の温厚で誠実な人柄もあり、周辺の十カ国が秦に服属し、秦の人口と税収は飛躍的に増大しました。
隣国・晋で不作や飢饉が起こるたび、百里奚は「民に罪はない」と穆公を説き、大量の食糧を援助しました。たとえ晋の君主が恩を仇で返してきても、百里奚は国際的な道義を守り続け、秦の威信を不動のものにしました。
彼は宰相という高位にありながら、冬でも外套を着ず、巡察の際も護衛に武器を持たせないほど質素で温厚な生活を貫きました。秦の民は、父のように彼を慕いました。
宰相府の再会
百里奚が宰相となって数年後、ある不思議な出来事が起こりました。
宰相府で宴が開かれていた際、洗濯女として働いていた一人の老女が、「私は楽器の演奏が得意です。ぜひ大夫の前で一曲奏でたい」と申し出ました。
百里奚が許すと、彼女は琴を手に取り、悲しげな歌を歌い始めました。
「百里奚よ、五羊の皮。別れた時のことを覚えていますか。雌鶏を煮て、戸の閂を薪にし、あなたは旅立ちました。今の富貴に、私を忘れてしまったのですか」
その歌声を聴いた瞬間、百里奚は総毛立ち、座を立って老女に駆け寄りました。彼女こそ、あの貧しい時代を共に生き、夫を送り出した妻・杜氏だったのです。夫の出世を聞きつけ、秦までたどり着いた彼女は、夫に会うために、あえて洗濯女として入り込んでいたのでした。
二人は人目もはばからず抱き合って泣き、その深い愛に秦の国中が感動に包まれました。穆公もこの再会を祝い、多くの財宝を贈りました。
巨星、墜つ
秦を西方の覇者へと導いた百里奚でしたが、その晩年には苦い経験もありました。紀元前627年、百里奚と蹇叔が「遠征は失敗する」と泣いて止めたにもかかわらず、穆公は功を焦って出兵し、崤(こう)の戦いで大敗を喫しました。
この戦いで、百里奚の息子である孟明視(もうめいし)を含む三人の将軍が捕虜となりました。百里奚は、自分の忠告を聞き入れなかった穆公を責めることなく、敗将として帰還した息子たちを自ら出迎えた穆公の寛大さを支え、国力の回復に努めました。
そして紀元前621年。秦を強大国へと変貌させた偉大な宰相は、百歳を超える長寿を全うして世を去りました。彼が死んだ時、秦の国民は男女を問わず涙を流し、子供たちは歌うのをやめ、麦を突く人々も悲しみのあまり声を出すことができなかったと伝えられています。
しかし、彼の死と同時に大きな悲劇が秦を襲いました。彼を重用した穆公も同じ年に世を去りますが、その葬儀において、177名もの家臣が殉死させられたのです。百里奚と共に秦を支えた有能な人材が一気に失われたことで、秦はその後、再び長い沈黙の時代を迎えることになります。


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