Marillion バイオグラフィ

ポンプ・ロックと呼ばれる音楽ジャンルがある。プログレッシヴ・ロックの影響を受けた(はっきり言えば、ジェネシスの影響を受けた)ロックである。つまり、プログレッシヴ・ロックが全盛期を過ぎた後に登場したプログレッシヴ・ロックともいえる。水を汲み上げるポンプ(pump)ではなく、「華麗な」「華やかな」という意味のポンプ(pomp)である。
ポンプ・ロック。その旗手がマリリオンである。

マリリオンの母体となったのは、シルマリリオン(SILMARILLION)というバンドである。
マリリオンはスティーヴ・ロザリーとミック・ポインターによって結成された。ここにフィッシュらが加わり、メンバーが確定したのが1981年である。スコットランド-ロジアン出身のフィッシュを除いて、メンバーは全員、バッキンガムの出身であった。この時点で、バンド名はマリリオンに変わっている。

  • フィッシュ(ボーカル)
  • ミック・ポインター(ドラムス)
  • スティーヴ・ロザリー(ギター)
  • マーク・ケリー(キーボード)
  • ピーター・トレワヴァス(ベース)

最初のライヴは1981年3月14日ビセスターのレッド・ライオン。
同年夏にデモ・テープを作成し通信販売やライヴ会場での販売という地道な努力の結果、マリリオンはBBCラジオに出演。これを機にマーキー・クラブでのライヴが実現。
そしてその勢いで1982年8月29日のレディング・フェスティバル最終日への出演が決まる。マリリオンはここで熱狂的に迎えられ、無名のバンドながらアンコールがあった。

この成功により、1982年9月にEMIと契約。ジェネシスを手がけていたデヴィッド・ヒッチコックをプロデューサーに迎え、10月25日にデビューシングル"MARKET SQUARE HERO"を発表し、チャート初登場3位となる。そして、シン・リジーを手がけてきたニック・タウバーをプロデューサーに迎え、1983年2月にマリリオンはアルバム「SCRIPT FOR A JESTER'S TEAR」(邦題「独り芝居の道化師」)で本格デビューする。このアルバムは最高位7位を記録した。

1983年と言えば、その当のジェネシスがアルバム「GENESIS」を発表した年である。このアルバムはポピュラー音楽として見れば風変わりなロックになっているが、昔からのジェネシスを知っているファンからすればもはやプログレッシヴ・ロックとは呼べない内容であった。フィル・コリンズのボーカルをフィーチャーした曲が多く、それはロックと言うよりポップスであった。良質なポップスではある。このアルバムからは"THAT'S ALL"がシングルヒットした。ヴィデオクリップがまた妙に落ちついた感じで、たき火の周りでフィル・コリンズがタンバリンを叩きながら歌っているという場面があり、楽器と楽器がぶつかり合うプログレッシヴ・ロックの緊張感はそこにはない。
ジェネシスのフォロワーであるマリリオンがデビューする年に、ジェネシスは、もはやプログレッシヴ・ロックから離れていた、ということになる。

地元イギリスではこのマリリオンの登場を非常に好意的に受け入れた。
イエス、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク&パーマー、ピンク・フロイドといったプログレッシヴ・ロックの歴史は常にブリティッシュ・ロックの歴史と併走していた。1970年代に隆盛を誇ったプログレッシヴ・ロックが終わりを告げたと思われた1980年代に突如として登場したマリリオンに、イギリスのロック・ファンはネオ・プログレッシヴ・ロックの先導役として期待したのである。

そのマリリオンの中でも際だっていたのがボーカリストのフィッシュである。元々スコットランドできこりをしていたというフィッシュは、ジェネシスにおけるピーター・ガブリエルの役割を演じた。マリリオンにシアトリカルな要素を持ち込んだのである。奇妙なメイク、奇抜な衣装。
ネオ・プログレッシヴ・ロックの旗手として期待される一方で、「今さらプログレッシヴ・ロックか」、「単なるジェネシスの真似」といった批判もあった。

だが、そういった批判には関係なく、マリリオンは快進撃を続ける。時代遅れだと言われても、実は若いファンはマリリオンのような音楽を求めていたのである。

ミック・ポインターが脱退し、元キャメルのアンディ・ワードをはさみ、イアン・モズレイ(ドラムス)が加入するという動きがあったものの、マリリオンの勢いは止まらない。

ニック・タウバーを再び、プロデューサーに迎え、1984年にセカンド・アルバム「FUGAZI」(邦題「破滅の形容詞」)を発表、チャート最高位5位を獲得。
同じ1984年にデビュー間もないバンドとしては異例のライヴ・アルバム「REAL TO REEL」を発表、これもチャート最高位8位となる大ヒットとなる。

新しく、クリス・キムゼイをプロデューサーに迎え、1985年、サード・アルバム「MISPLACED CHILDHOOD」(邦題「過ち色の記憶」)を発表。ついにチャート1位に輝く。
このアルバムは、映画化もされた「オーメン」からヒントを得たコンセプト・アルバムとなっている。

1987年にアルバム「CLUTCHING AT STRAWS」を発表した後、フィッシュ(ボーカル)が脱退してしまう。
1988年、2枚組ライヴ・アルバム「THIEVING MAGPIE」、アルバム未収録曲集「B'SIDES THEMSELVES」を発表し、マリリオンはフィッシュ時代に決着をつける。

フィッシュという個性的なフロントマンを失ったマリリオンは、まったく違うタイプの無名ボーカリスト、スティーヴ・ホガースを加入させる。
1989年に「SEASONS END」を、続いて1991年に「HOLIDAYS IN EDEN」を発表。
それまでのマリリオンは原色をたっぷり使い、それをかき混ぜたようなイメージの音楽を作り出してきたが、スティーヴ・ホガース加入後は、時折、ユーモラスなフレーズを盛り込みながら、比較的、中間色のような穏やかな音像を作り上げた。

1992年にベスト・アルバム「A SINGLES COLLECTION 1982~1992」を発表。

そして1994年、マリリオンは傑作「BRAVE」を発表するのである。
ハロウィンやクイーンズライク、ブルー・オイスター・カルトらがこぞってコンセプト・アルバムを作った時期があった。それが一段落して、大作主義が影を潜めていたのが「BRAVE」を発表した頃の風潮である。マリリオンが発表した「BRAVE」は、一人の少女の運命を音楽で紡ぎ出すという、まさにコンセプト・アルバムであった。
記憶を失った10代の少女が、高速道路脇の端のそばで発見された。精神的ショックを受け、錯乱状態に陥り、人と話すことを拒み続けている。このニュースをヒントに作られた物語となっている。

この後、マリリオンは、1995年に「AFRAID OF SUNLIGHT」を発表。

1996年には2枚組ライヴ・アルバム「MADE AGAIN」を発表。2枚目にはアルバム「BRAVE」が丸ごと収録されている。

1997年に「THIS STRANGE ENGINE」を発表した。

※この記事は1997年に書かれたものです。

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